マナーエッセイ

礼節…、「再び」。

2013年5月2日

最近、書店で「再点検」、「再入門」なるタイトルのマナー本がよく目につく。こういう似たような本が並ぶときって、時代の風潮に何かしらの警鐘を鳴らす意図がありそうだ…。

―「常に他人の存在を意識して、その意識の隅々に寛容さと敬意と配慮を行き渡らせること、”礼節”とは善意の表れです」―。ホントにそうだよなぁ…と同調しつつ、地下鉄の中で本を読み進めていたとき、ふと顔を上げると、少し離れたドア付近の席に30代前半ぐらいのビジネスマンが座っているのが見えた。「あれっ?M君?」10年以上前の教え子だ。学生時代の面影がそのまま残っているので間違いない。スマートフォンに熱中している様子で、声をかけようかとしばらくチラチラ見ていると、彼は乗車してきた一人の高齢者に席を譲るため、スマートフォンを鞄にしまってスッと立った。

相変わらず優しいなぁ…、でも彼の心遣いや配慮はそれに留まらなかった。席を立ってからというもの、M君は一切スマートフォンを触ろうとしない。鞄に入れたままだ。操作上、それを使おうとすると、鞄を床に置いたり足の間に挟んだりして仁王立ち状態になってしまい、割りと混んでいる車内では他者の邪魔になることがよくある。(実際、あのときも他にそういう立ち客がたくさんいて、特にドア付近では迷惑千万だった…)

おそらくM君は、ちゃんとわかっていたのだろう。停車のたびに少しずつ自分の身体を移動させながら乗降客の動きをスムーズにしていたのが見てとれた。私はそのとき、微笑ましい感情と同時に学生時代の彼のある姿を思い出していた。

当時のM君、実は勉強が(超)苦手。授業開始15分で目がうつろになり、30分ほど経過すると昏睡状態に入る。居眠りの学生は絶対に見逃さないポリシーの私は、手を変え品を変え起こすのだが、M君には全く効き目がなく、一瞬、目を開け、またすぐ夢の続きに戻ってしまう。おまけに校則違反の格好で登校してくることもたびたびあって、校内では”要指導”学生の一人だった。

そんなある日、自宅近くのコンビニに入ると、アルバイトをしているのか、M君がレジカウンターの中にいるではないか。ちょうど小学校低学年ぐらいの男の子が、お菓子と手に握っていた千円札を彼に差し出していたところだった。M君は、まずお菓子を袋に入れ、男の子に渡した。そして次に…、小銭になったお釣りを一番小さな袋に入れ、さらに口の部分を固く結んだうえで、「落とさないように気をつけてな!」と笑顔で渡してあげていた。男の子は嬉しそうに「うん、ありがと!」と…。

普通、釣り銭はそのまま渡す。だがM君は、相手が小さい子どもであること、さらに財布を持っていないことに気づき、配慮をカタチにしたのだった。また、そのときの男の子に向けられた笑顔が最高で、優しさと思いやりが溢れていたように感じたのを思い出した。

確かに勉強は苦手、風貌にも問題あり…、でも、M君はあの頃から相手や周囲に意識を向け、善意に基づく行動ができる若者だった。全然変わってないなぁ…、電車内でさりげなくスマートフォンを鞄にしまって席を立った彼の行動は、人間が普遍的に持つべき“礼節”そのものだと思った。本の中に次のような一節がある。「礼節ある生き方を選ぶということは、他者や社会のために正しい行動を選ぶということです。他者のために正しく行動すると、その副産物として人生が豊かにふくらむのです。“他人に親切にするのはよいことである”―この真理は永久に色あせません。」

電車を降りる少し前、私も席を立ってM君に声をかけた。「おっ、先生!」と驚きの笑顔だ。「久しぶりねぇ、学生時代と変わらないねっ!」と言った私に、彼は「先生もお元気そうですねっ!」と一言。…そう、これがまた彼の心遣いだったのだと後で気づいた。十数年ぶりに会った私の印象…、とても言えなかったんだろうなぁ、「先生も変わらないですね」って。(苦笑)今回、「再入門」の本とM君のおかげで、私も礼節を「再」認識することができ、心から感謝だ。

参考/「日経おとなのOFF」NO.135/日経BP社 「礼節『再』入門」/P.M.フォルニ著

おわり